新川運河と兵庫運河1

\新川運河の建設\兵庫運河の完成\キャナルプロムナードの時代\


新川運河の建設

 運河といえば小樽が有名です。しかし、日本で一番大きな運河は和田岬にある新川運河と兵庫運河なのです。

 なぜに和田岬に運河が掘られたのか?それを説明するには、まず和田岬の地理的側面に注目しなければなりません。和田岬が重要な港湾と見なされたのは、和田岬が西方から突出しているため、明石海峡から流れてくる潮流を遮り、偏西風を防ぐことができたからです。その一方で東風や南風に対しては全くの無力です。当時の和田岬は砂州が広がった海岸で、激しい東・南風が吹いても船を避難させる場所はありません。そのため、和田岬は船の難所とも言われ、大風の日には海岸線に多数の船が打ち上げられ破壊されました。明治維新になり和田岬を利用する船はますます増え、破壊される船も増え続けました。1870年の暴風雨で、難破船580隻、死者24人、行方不明者16人を出すにいたり、この問題は無視できない問題となりました。

 そこで立ち上がったのが神田兵衛門です。神田兵衛門は兵庫県と伊丹の小西新右衛門、兵庫の北風荘右衛門から5万円の資金提供を受け「新川社」を設立。運河の建設に取りかかりました。建設費用は12万6900円に登り、最後には私財をなげうってまで運河の掘削をやりとげました。

新川運河工事

 神田兵衛門(初代神戸市会議長)が1873年に着手。半円形の新川運河を建設だけで終了。切り取られた真ん中の島は中之島と名づけられた。なおこの工事過程で、多くの石垣や木材を発見したことによって、清盛が建設した大輪田泊もこの付近だったことが裏付けられた。

 延長:1310m
 幅 :18m〜50.9m
 水深:1.8m〜3.0m


 下の写真を見ても分かるように、今でも新川運河は舟を守るために使われています。漁が行われない日は、狭い運河にたくさんの舟が身を寄せ合っています。また、兵庫運河との接点にはどうやら鷺が住み着いているみたいで、いつ行っても丸太の上にのっかり魚の動きを見つめていますよ。

図:新川運河に守られる舟たち


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